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関ヶ原の戦いの経緯

このように戦いは始まり、終わっていったのですね。

7月11日、三成は東軍に加わる予定の大谷吉継に「家康打倒」を打ち明け、吉継を己の陣営に引き込んだ。7月12日、佐和山城で三成は吉継、増田長盛、安国寺恵瓊と秘密会議を凝らし、毛利輝元への西軍総大将就任要請等を決定した。同日、愛知川に東軍に参加予定の諸将を食い止める関所が設けられ、長宗我部盛親、鍋島勝茂らが足止めを食らい、結果的に西軍への参加を余儀なくされた。逆に佐竹義宣は三成よりだったが父義重の反対に遭って中立を余儀なくされた。

7月17日、ついに三成は挙兵宣言を発し、翌日、家康の家臣である鳥居元忠が預かる伏見城に開城要求を勧告したが元忠は拒絶。その翌日の7月19日から攻城戦が行われる。伏見城は宇喜多秀家、島津義弘らにより攻められ、元忠らの奮戦むなしく8月1日に陥落した(伏見城の戦い)。その後、丹後国の田辺城、伊勢国の安濃津城、松坂城などを攻略し、8月までには陥落させる。三成自身は美濃方面を抑えるため、8月10日に佐和山城から西軍の拠点をなす大垣城に入った。

一方東軍は、江戸に留まる家康を除き東海道を西進する福島正則、池田輝政ら豊臣恩顧大名を中心とした先発組が、8月22日、河田(現一宮市)より木曽川を渡り、米野村(現笠松町)付近で西軍と激突(河田木曽川渡河の戦い・米野の戦い)。東軍はさらに進軍し、翌日、織田秀信(三法師)が城主の岐阜城を落とした。家康は江戸で諸将に書状をしたためていた。藤堂高虎、黒田長政らを使い、豊臣恩顧の大名の東軍繋ぎ止めと西軍切り崩しを図っていた。岐阜城が落ちたのを知ると、家康は9月1日に約3万3千の兵とともに東海道を大坂方面を目指した。

宇都宮に残った家康の三男徳川秀忠は8月に約3万8千を率い、中山道を進んだが、途中、真田昌幸の籠もる上田城を攻略し損ねた上、足止めを食らい関ヶ原の戦いには間に合わなかった。家康は9月14日、赤坂の岡山に設営した本陣に入る。三成は家臣である島清興(左近)の進言により、赤坂付近を流れる杭瀬川に兵を繰り出し、東軍の一部を誘い出すと、これを散々に打ち破った。これを杭瀬川の戦いという。

9月14日夜、家康は赤坂を出て中仙道を西へ向かう構えを見せた。これにつられるように、大垣城に篭っていた石田三成らは関ヶ原へ転進した。


引用『ウィキペディア(Wikipedia)』

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2008年01月08日 18:44に投稿されたエントリーのページです。

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